日野市の概要
日野市は、東京都のほぼ中央に位置し、東京駅からJR中央線で45分、新宿駅からはJR中央線・京王線で30分ほどのところにあります。市の北部には多摩川が、中央部には浅川が流れ、南部は緩やかな丘陵地(七生丘陵)となっています。市内には農業用水路が張りめぐらされて、水田も多く、雑木林が残る、水と緑が豊かなまちとして知られています。日野市は、その豊かな水を元に発展した農業地域から、昭和初期以降、日野自動車・コニカ・富士電機・東芝などが企業誘致されました。また、大規模団地の開発が行われ、住宅都市として発展し、一方では、福祉・教育にも注力し、「子どもを育てやすいまち」を実現させました。
日野のあゆみ
約5万年前の先土器時代から、多摩丘陵に人々が住み始め、縄文早期(約1万年前)には、日野台地周辺に集落ができました。縄文後期になると、低地にも人々が移り住むようになり、6世紀頃には、大規模な集落が形成されるようになりました。
平安時代後期に入ると、京から来た日奉宗頼は、日野に土着して、西党と呼ばれる武士集団の祖となり、日奉一族は多摩川沿いに展開しました。日野周辺には、多西(西)・高幡・上田・田口・平山・土渕・田村・立河氏などの武士たちがいましたが、なかでも平山季重は、源氏に従って一谷の合戦などで武功をたて、その勇猛果敢ぶりが広く知られた武将でした。
中世の日野は、船木田荘と吉富郷・得恒郷・土渕郷から成っており、鎌倉時代後半から戦国期にかけては、高幡高麗氏の一族が高幡不動周辺をはじめとする浅川流域を支配していました。その後、永禄(1558年〜1570年)のころから、日野は小田原北条氏の支配下に入り、北条氏照は滝山城、後に八王子城を拠点に多摩地域の開発を積極的に進めました。
江戸幕府が開かれると、日野は幕府直轄地と旗本領となり、慶長10年(1605年)、甲州街道が整備され、日野宿が置かれました。貞享元年(1684年)、日野宿の助郷村42ヶ村が定められ、現在の市域の大部分の村が含まれました。また、同年、渡船場の経営が日野宿になり、万願寺の渡しが上流の日野の渡しに変更されました。また、文政12年(1829年)には、日野宿を寄場とする日野宿組合村が組織されました。
幕末になると、当地域出身の土方歳三と井上源三郎は、佐藤道場で出会った近藤勇や沖田総司らと共に上洛し、尊王擁夷の嵐が吹き荒れる幕末の京都で新撰組を結成しました。新撰組は、京都の治安維持に尽くしましたが、やがて徳川幕府は崩壊し、井上源三郎は鳥羽伏見の戦いで、土方歳三は箱館で亡くなりました。
明治に入ると、多摩地域は神奈川県に属することになりましたが、明治22年(1889年)の市制・町村制の施行により、日野宿・桑田村・七生村が誕生し、明治26年(1893年)には、多摩地域が東京府に編入され、日野宿は「日野町」に改められ、明治34年(1901年)には、日野町と桑田村が合併しました。その後、日野町と七生村が合併し新しい日野町となり、昭和38年(1963年)、市政が施行され「日野市」となりました。
日野の名前の由来
市名の由来には諸説ありますが、その中でも下記の四説が代表的です。
1、飛火野説
千人同心植田孟縉(もうしん)による説で、「上古火野と称したが和銅年間に火野を日野と改めた。火野は飛火野のことで、烽火(のろし)をあげる高い丘陵をさす。日野もこれにならって名付けられたものであろう。」と、武蔵名勝図会に書かれています。
2、日野宮説
武蔵七党のひとつ、西党の祖日奉宗頼(ひまつりむねより)が、天御中主尊(あまみなかぬしのみこと)を勧請して、日ノ宮権現を祀ったので、この社が由来とされています。
3、日野氏説
日野の旧家日野氏に伝わる系図によると、応永32年(1425年)頃、日野中納言資朝の玄孫・宮内資忠というものがこの地に来住し、それ以後、「日野」という地名になったといわれています。
4、地形説
故松尾俊朗横浜国立大学教授によるもので、日本各地の日野という地名は、西の大地を背に東斜面のきわめて日当たりの良い地形に名付けられた地名であるとされています。地名が地形と深い関係をもつ例が多いことを考えると、日野は二つの川にはさまれた東斜面の、日の良くあたる住みよい土地であることによって名付けられたのであろうとされています。
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日野市郷土資料館 |
| 住所: |
〒191-0042
東京都日野市程久保550 [地図を見る] |
| 電話番号: |
042-592-0981 |
| 開館時間: |
9:00〜17:00 |
| 休館日: |
毎週月曜日(月曜が祝日の場合その翌日)、年末年始 |
| 入館料: |
無料 |
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